ホームラン級の奇跡

1959年4月26日は、あの王 貞治さんがプロ入り初のホームランを打った日。高校を卒業してから1カ月もたたない同年4月11日にプロデビューしてから、26打席連続無安打後の1本だったそうです。
その時点のことは生まれていないので知りません。ただ、当時のメジャーリーグ通算本塁打記録755本に届いた瞬間や、それを超えたシーン。それから22シーズンの現役時代の最後に放った、いまだ誰にも破られていない世界記録のレギュラーシーズン通算本塁打868本をかっ飛ばしたときも、テレビながらこの目で見ました。
これはひたすら憧れた少年の錯覚に違いないことはわかっています。家でナイター中継を見ていて王さんがバッターボックスに入り、「ここで打ってくれ!」と念じると、本当にホームランを打ってくれたんです。さすがに偶然だろうと子供ながらに疑い、試しに別の試合で同じように念じると、また打ってくれる。そんな場面に何度も遭遇すると、打てなかったときは念じ忘れた自分を責めるようになるのです。
いろいろ知恵がついてくると、ホームランだけが野球の醍醐味ではないことを知っていきます。それでもやはり、野球をやるなら一度はホームランを打ってみたい。あれほどわかりやすいヒーロー登場の場面はないんですよね。カーンと打ち放たれた白球が大きな弧を描いて遥か彼方のスタンドに吸い込まれる。瞬時に熱狂した観客は歓声を上げる。その球場全体を包み込む歓喜の渦の中心で、打ったバッターはゆっくりベースを一周する。それほど注目される権利を得る人間になれるなら……。
初めて本格的に野球をやった20歳の頃、友人に連れられ葛飾は柴又に行きました。有名な帝釈天を囲う玉垣に王さんの名前が刻まれているから、それを拝もうと。歩き回って見つけた漢字三文字を両手でさすりました。一度でいいから打たせてくださいと念じながら。
同じような野球小僧が多かったのでしょう。僕に人生初ホームランの機会が訪れたのは1年後でした。河川敷の球場なので観客席はなく、僕が打った球は外野の奥の草むらまで転がった末の、いわゆるランニングホームラン。全力でホームまで走ったから孤高のヒーロー感に浸る暇はなかったなあ。それでも、こんな僕でも打てるのがたまらなくうれしかった。
ホームランがもたらす感動は、今は大谷翔平選手が与えてくれます。録画してでもその瞬間を見たい衝動の源には、やはり王さんがいます。その二人の現役時代に立ち会えるなんて、それこそホームラン級の奇跡という他にありません。

待てば海路の日和あり。子供の頃、海路は暖をとるカイロかと思って意味不明だった。

自分を語れる人に

こんな話をされると、僕は心を閉じたくなります。知り合いが一日店長を務めた飲み屋が早仕舞いする頃、僕を除けばただ一人の、理知的な雰囲気の男性客が始めた語りでした。
「電車の中で子供が窓の外を眺めたくて、膝を立てて椅子に乗っかるときがあるじゃないですか」
今時そんな場面がまだあるんだと思いました。語りの冒頭なので、僕の心はまだ開いています。
「けれど靴を履いたままだったんですよ。となりに座っていた母親が何も言わないので、僕が注意したんです。けれど母親にではなく、人に迷惑をかけそうなその子供に、一人の人間として……」
ここまで聞く前に心を完全封鎖しておけばよかったと後悔しました。なぜなら僕は、その話を耳にしながらこんなことを思ってしまったからです。それがいかにも反社っぽい人でも、あなたは一人の人間として積極的に注意するんですかと。ああ、嫌な性格。
「これ、どう思います? 僕の行いは間違っていますか?」
これは確信犯だと思いました。彼は1ミリたりとも自分の正当性を疑っていない風だったから、待っている解答は肯定か追従しかないはず。なおかつ、問いかけたのが一日店長を務めた二人の子供を持つ母親というのも、嫌なヤツの僕はちょっと卑怯だと思ってしまったのです。そもそもそんな質問、酔客相手に商売する人間が本音を言えるはずもないだろうに。
お察しの通り、語り始めでそっち側に転ぶ気配は感じたものの、心を閉ざし切れないまま最後まで聞いてしまった僕は、一人静かに怒っていました。その男性に向けてというより、自分のことを上手に喋れる人はなぜこうも少ないのかという、ある意味では社会全般に対する絶望に打ち震えるようにして。
よほど求められない限り、僕は自分のことを話さないよう心掛けています。それは、この世界でいちばんつまらないのが自分の話だと思っているからです。また同時に、仮に自分の話が誰かの役に立つとしても、役立ってくれそうな人を正しく見極めた上で、十分な説得力をもって伝える自信がないからです。
だから憧れるのです。心を全開にして聞き入りたくなるほど自分を語れる人に。憧れたままでいるのは、最良のお手本に出会えていないからでしょうか。それとも僕が、酒の席で自分の正当性しか語れないオッサンを快く思えない性根が曲がったヤツだからでしょうか。

 

近所に甘えるな

気がついたらジーパンのケツに穴が開いていた事象すら何かしらの教訓にしようとする、毎度ウザい話です。
さておき、近所という言葉について意見を求められた場合、最初に検討するのは「どこまで?」という距離ではないでしょうか。そもそも近さは個人の感覚によるところが大きいので、「徒歩圏内こそ」から「クルマで30分」まで、様々な近所が出てくるでしょう。
他方、地方から中央に通う人は「1時間しかからない」と言いがちですよね。けれど中央から地方に向かう人は「1時間もかかる」と愚痴ったりする。これは、個々の距離感や時間の感覚を越えて、土地のヒエラルキーから生じる劣等感と優越感の差異そのものではないかと。それもまた感覚の問題なので、ネットが世界中を駆け巡っているこの時代、「地球のどこも近所!」と言い切れる人がいていいのかもしれません。
それも横に置いて本日取り上げたいのは、近所に対する甘えです。「すぐそこのコンビニだから部屋着のままでもいっか」と出かけてしまうことがありませんか。なぜ近所だとそういう体たらくを自らに許してしまえるのだろう。どんなにだらしない格好をした客が飛び込んできても、店員さんはユニフォームを脱ぎ捨てることなく、丁寧な対応をしてくれるというのに。
飾る必要がない。つまりは生活感をさらけ出していい。それが近所に託す許容だとしても、一方的に甘えていると痛い目に遭うようです。僕はジーパンのケツに穴が開きました。って、さすがに端折り過ぎだな。
何年か前に間違って買ったジーパンを近所用として穿き続けてきたら、自転車にもよく乗るせいかケツだけ色落ちが激しかったんですね。それを放置したまま、いつも通りの買い物後に部屋で脱いだら、親指が楽に入るほどの穴を発見しました。いつからだろう。ケツに穴が開いたジーパンを穿いた近所風の男を町の人に目撃され始めたのは……。
いやまぁ僕のケツなんて誰も興味がないと思いますが、大人としてはかなり恥ずかしい行為に他なりません。どこまで甘えていいかも個人の感覚に過ぎないので、距離に関係なく一定の礼儀は不可欠と反省しております。近所用ジーパンを一着失ったのも、なかなか手痛い。

気配を悟られす仲睦まじい姿を撮ろうとしたら逃げられた。デート中だったらごめん。

 

デジタル弱者に追い込まないで

しつこいと嫌わず、僕の身に降りかかったスマホトラブルの話をもう1回だけ聞いてください。電話不通から始まった支障は、実はWi-Fiを買っただけでは改善しなかったというか、また新たな問題を呼び込んだのです。
電話が使えなくなったのは、スマホの最新アップデートを怠り続けたから。Wi-Fiでしか更新作業ができないのを知りながら、自宅でWi-Fiを利用していないことを理由に放置したのは自分の責任です。それを悔い改めるべく、駆け込んだ携帯ショップでWi-Fi接続機器を購入。溜まりに溜まったアップデートを無線で済ませたら、電話機能は元通りになりました。
ところが、Wi-Fiが利用できない場所に行くと、今度はネットワークに接続できなくなったのです。スマホにあるまじき問題ですが、「もともとは電話だろ!」と文句を言った僕への腹いせなのでしょうか。
いずれにせよ、またしても自分では何ともならず、再び携帯ショップに行ったら、おそらくSIM交換しか手立てはないけれど、ウチではできないからとキャリアの営業所を紹介されました。それが歩いて2分の場所だったのは幸いでしたが、予約の必要があるとされ、また翌日、つまり昨日の昼に出かけていったわけです。さすがに辟易しながら。
そんなユーザーの困惑に対して、気配だけでも寄り添う姿勢を漂わせてくれたらうれしいです。予約対応してくれたスタッフは、僕の説明を途中で止め、対応できそうにない理由を切り出しました。そちらの立場上、責任の所在を明らかにするのは理解できます。しかし人の話を遮るなら、せめて対応できそうな前向きな情報から伝えてくれないものかと。
僕がじくじくと溜める他になかった辟易の解消は、おそらく彼らにとって本日こなすべき案件に含まれていないのでしょう。けれどデジタル方面は、素人にはやっぱりよくわからない。わからないから対面での説明を求めて何度も足を運ぶことになる。
今回の件で痛感しました。持たざる者ではなく知らざる者がデジタル弱者に追い込まれるのではないかと。いささか被害者意識が強い感覚でしょうが、もう少しでいいので、困っている人に優しくしてください。結局、SIM交換で直るかもと聞いた僕の話そのままの結末を迎えたわけだから、こちらの説明を遮らなくてもよかったんじゃないでしょうか。こんなことを言えばクレーマーに追い込まれるのかな。

これもチューリップと教えてくれたのはGoogleレンズ。使い方くらい、知ってるんだから。

 

 

「今どんな気持ち?」

申し訳ありませんが、昨日のスマホ関連からもうヒトネタ書かせてください。
そんなわけで、いきなり電話がつながらなくなった問題を解決するため、土曜日の午前中に駅前のスマホショップへ駆け込んだ件は、すでにお伝えした通り。週末だったからか、店頭に幟など立てるスタッフが約二名。その大いなるやる気に反して店内はガラガラ。こちらとしては幸いだったので、最初に目が合った店員さんに諸事情を伝えて対処を求めました。
実はちょっと不安だったのです。あとになって、そうだったかなあと思ったけれど、たぶんこの春からの新人なのかもしれません。まだまだ男子の雰囲気たっぷりで、妙にハキハキしている分だけ頼りない感じがアリアリ。それでも目が合っちゃったし、すぐさま席を用意してくれたので、彼に従うことにしました。
しかし、不慣れ感はマザマザ。改めて僕が直面した問題点を説明したら、手元のタブレットで何かを検索し始めました。そこでまさぐったのは、昨晩僕が解決を求めたページそのものだったのです。
オイオイ、なんて意地悪なツッコミはしません。ただ、できるだけ丁寧な口調で、「自分も見ましたよ」と告げました。それがきっかけになったのか、彼の動揺は周囲にも伝わり出し、見かねるようにして現れたベテランらしき方が一言。「担当、変わらせていただきますね」
そのタイミングで、新人男子風店員は席を外すと思ったんです。ところが、何の指示も受けなかったからか、彼はその場に残りました。ちょこんと座ったまま、うつむくでもなく斜めに視線を固定して。
その姿がまた、滅多にお目にかかれない絵に描いたような所在のなさで、僕は見るでもなく観察しちゃったんですね。彼は今、どんな気持ちでフリーズしているんだろうと。いろいろ考えたんですよ。この間を利用して彼の立場を確認してみようとか、または直接的に「今どんな気持ち?」と聞いてみようとか。けれど、彼の言葉を待つほうがおもしろいと思って、その所在なさげが充満する空間に身を任せることにしました。
結局、若い店員は最後まで同じ姿勢。内心ソワソワしていたのか、僕にコワゴワだったのか。次にまた会えて、今度は営業トークがペラペラだったら、頭を撫でてあげたいです。

間もなく雷雨! と睨んだ僕の予想を嘲笑った空です。

 

「Wi-Fiください」

デジタル関連とはそれなりに良好な関係を保っていると思っていたのだけど、何かのトラブルに直面すると、あらゆる事情をよそに焦りや怒りが込み上げてしまいます。世代の性でしょうか。しかし、久しぶりに苛立ちました。
発覚したのは金曜日の早い夜。母親への定例的な電話をかけようとしたら、これがまったくつながらない。そりゃ働き者のスマホだって隙を見せるときがあるだろうからと、少し間を置いてから再びかけても、アプリが働く気配なし。ちなみに、電話以外の通信に問題なし。
そんなことがありますか? いろんな機能が付加されスマートフォンになったとは言え、もともとは電話でしょうと。その大原則に支障が出るなんて、ご先祖様の顔に泥を塗るような失態になりませんか?
以上が僕の怒り。この不通状況の最中でもっとも心配だったのは、誰かが、中でも母親が僕にかけようとしてもつながらないケースが起きている可能性です。「もしや」を想像すると、苛立ちはさらに加速していきます。
当然のことながら、ひとまずネット情報を参考に様々な対処法を講じました。もっとも怪しかったのが、最新アップデートの無視。2年くらい前に新しくしたスマホは、Wi-Fiでないとその作業を行わない設定になっていて、けれど僕は自宅のPCを含みWi-Fiを使っていませんでした。「使っていないんだから無理でしょ」が僕の言い分。しかし世間は「今時使ってくれなきゃ無理でしょ」
そんなわけで土曜日の午前中、駅前のスマホショップに駆け込み、事情を伝えたら、やはりアップデートをしてこなかったことが原因と判明しました。そこで驚くべき偶然とぶつかったのです。僕が使っているスマホのメーカーから、アップデートをしなかった場合、大部分の機能に不具合が出るという緊急のお達しが、土曜日だったか金曜日だったか、とにかく直近でスマホ関連会社に出たらしいんですね。初見の店員さんに向かって「オレじゃん!」とつぶやいてしまいました。
こんなトラブルに二度と煩わされないために発したセリフは、「じゃ、Wi-Fiください」。様々な契約を経て、僕の部屋では今、この世間とさらなる良好な関係を保つための無線が飛び交っています。

自宅到着のWi-Fiさん。電波状況はビンビンらしい。

 

9年って

一昨日の新幹線往復は豊田市のゴルフ場が取材地。名古屋駅からレンタカーで現地に向かいました。そのゴルフ場は前にも訪れたことがあるのだけど、そのとき誰とどう行ったかが思い出せなかったのです。あるいは単独だったんじゃないか? いや、ちょっと風変わりな撮影をしたのは確かだから、プロのフォトグラファーが同行したはず。それは誰? そんな記憶の曖昧さがずっと気持ち悪いままでした。
「トナオさんと初めてロケに行ったのが、今回のゴルフ場でした」
名古屋駅で落ち合ったフォトグラファーが、僕が何も言わないうちに突然切り出したので驚きました。彼のスマホに、その際の連絡メモが残っていたそうです。
「2015年の8月でした。集合場所や時間を指定してくれたり、新幹線のチケットまで手配してくれて、あの頃のトナオさんは優しかったですね」
今でも時折いっしょになる彼の嫌味が笑えたのは、僕がすっかり忘れていた同行者と再び同じ場所に向かう奇妙さがひとしきり収まったあとでした。
9年って、決して短くはないけれど、長大とまでは言い切れない、いささか中途半端な時間です。ただ、9年前を考えてみると、50代前半だった僕と30代前半だった彼、つまり経験豊富なベテランと、本格的にキャリアを積み上げていく世代では、ひとつの仕事の印象度合いが違うのかもしれません。ゆえに僕は忘れ、彼はしっかり覚えていた。
そして彼は、この9年間で3人の娘の父親になったことを車中で話してくれました。三姉妹なんて大変と言えば、今は補助金制度が充実しているので、お金の面ではそれほど苦労しないとか、それは同じ時間を過ごしながら僕には無縁のままの体験談でした。
やはり愕然となります。決して短くはなく、かと言って長大でもないと感じた9年で、三人の女の子がこの世に生を受け健やかに成長していると聞かされると、短絡的ながらもオレは何していたんだろうと思わざるを得なくなります。何もなかったわけじゃないんだけど。
その9年前の記憶が明るみになったことと、僕と彼の9年間の違いが判明したその日のことは、たぶん忘れません。ただ、現時点から9年後を考えるのはやめました。それは30代でも40代でも50代でもそうだったけれど、想像して落ち込むのが嫌だからです。だって9年後って、70代ですよ。おっかないでしょ?

こちらが一昨日の仕事風景です。

さよなら極楽特急

昨日は名古屋。例によって日帰り。前回は1月末の広島以来なので、乗り慣れていると言ってもいい新幹線で大きな変化に直面しました。
3月16日から喫煙ルーム使用不可。そうなることは半年くらい前から知っていたけれど、ついに来たなあと、またひとつ居場所を奪われたさびしさに苛まれました。
そんなのぜんぜんさびしくない。むしろ、もっと早く廃止してほしかったという方のほうが圧倒的に多いのでしょう。何しろ世の中が完全禁煙方向に舵を切ったのは、ずいぶん昔のことだし。
ただ、いつ何時でも吸える喫煙車両ではなく、かなり限定的な喫煙ルームの設定は、悪くないアイデアだと思っていたんです。実際にめちゃくちゃ狭いけれど、それでも許してもらえるなんて、東海道新幹線は極楽特急だなあと感謝したほどです。
でも、匂いがダメなんですってね。喫煙者のほとんどが無頓着な残り香が、席に戻ったとき周囲に迷惑をかけるそうな。そのせいで、特に喫煙スペースを備えた車両付近の座席は売れないと聞きました。う~む、申し訳ない…。
いずれにせよ僕ら喫煙者は、どんどん肩身が狭くなっても受け入れる他にありません。現に新幹線の車内でも、喫煙スペース撤廃に向けた怒りの声は上がりませんでした。ただ、ホームの喫煙ルームは、以前よりも大混雑。これからあそこは、決して口にできない不満や怒りを吐き出す場所になるのかな。いや、吸えるうちに吸っておこうという卑しい煙が充満するだけか。
そんな必死の喫煙家たちが煙たく見える方にとっては、この世界がまた少し極楽に近づいてよかったという朗報になるでしょうね。

もう二度と入れない記念に撮っておきました。

本能的特性を慮るなら

興味深い記事と出会いました。昨年の今頃に広く伝えられたらしいそれは、虫が光に集まる理由の研究結果です。
研究から導き出されたのは、虫の背光反射という特性だそうです。極めて体重が軽い虫は、どうやら重力を検知する機能がなく、空から射す太陽光を背中に受けることで、この地上の天地を確認しながら正しい姿勢で飛べるらしいんですね。研究では、虫の側面や下側からも光を当てたそうです。側面だと、光源の周囲をぐるぐる飛び、下側だと失速墜落。その結果からも、背光反射が立証できたとか。
気になるのはここから。虫に背光反射の特性があるとすれば、特に夜間の人工的な光は迷惑以外の何ものでもないんだそうです。本来は、正しく飛べないからじっとしている夜間に、太陽と勘違いする光を見つけてしまったら飛ぶ他になくなる。なおかつ人工的な光源は一部分しか照らさないから、その光の中に囚われて逃れられなくなるというのです。
おそらく虫たちは、「なんで俺たち飛んでるんだ? こんなに疲れるのに」とはボヤかないでしょう。それが抗いようのない本能的特性だから。なのに人間はそれを利用した誘蛾灯など発明するものだから、本能によって絶命する仲間も大勢いるわけです。なんて気の毒だろうと思ったりします。
どうしようもなく囚われてしまう本能的特性が僕にもあるだろうか。そう考えて真っ先に浮かんだのが、前にも書いた覚えがあるガイノイド脂肪の誘惑でした。ガイノイド脂肪とは、思春期を迎えた女性が女性らしい体型をつくるために蓄え始める脂肪です。いわゆる丸みを帯びた体は男性を惹きつけるので、総じて種の保存には不可欠な本能的メタモルフォーゼだそうな。
この話を聞いたとき、合点がいきました。だから僕は見てしまうのかと。とは言え、本能に理性を着せることで社会を成り立たせている僕らは、持って生まれた特性をさらけ出して生きるわけにはいかない……。
虫の気の毒を慮るなら、夜間の人工的光源は控えめにすべき。では男の僕を思いやってもらうなら、果たして何を求めるべきなのでしょうか。って、すみません。こんなオチで。

他方、八重桜はふさふさと大満開中。

誰も興味がないイベントのリポートそのもの

習慣にしたいと言い続けて幾星霜。たまにランニングして何かを書くようでは、ほぼイベントリポートじゃんと呆れる自分を押し殺すことにします。
「そう言えば」なんて気づかなかった振りをするのは逃げの常套句。2月で数回。3月に至ってはゼロ回であることを、当の本人が知らないはずはありません。
ありがたいことに、年明けからご依頼多数となりました。厚く御礼申し上げます。ゆえに個人の日課または希望を果たすより、締め切り優先でスケジュール調整するのがこの稼業の常。だとしても、過ぎ行く時に抗おうともせず体たらくを貪った我が身を嘆く場合、「もっとやり様があったんじゃないか?」と責める気持ちが沸き立つのも毎度のことです。
良い習慣って、良い結果を蓄えてくれるものですよね。だから続けることで、久しぶりに通帳を眺めたときのように、「こんなに貯まってた!」というよろこびを味わえるわけです。一方、のんべんだらりと生きていても日々コストがかかるから、何もしなくても残高は少しずつ減っていきます。その目減り具合が、定期的な預金情報を教えてくれない体力ではわかりにくい。何より怖いのは、元の残高に戻すための努力を想像してげんなりし、いわば体力口座を破棄するようにすべてを諦めてしまうことです。
では、どうすればいいか。いくらかでも体力に残高があるうちに、浪費消耗した分を取り戻すために再び走り出す。他に手立てはありません。
というような、100年前の自動車を始動させるくらい面倒な心的手順を踏んで、ようやく走れました。いやまったく、誰も興味がないイベントのリポートそのものですね。
それにしても、いつものコースとは言え2カ月近くご無沙汰すると、細部があれこれ変わります。工事中だった場所にマンションらしきものが建ったり、何より住宅街の庭の花が色とりどりに咲き始めている。春と初夏が混じり合っている気配は、本来なら徐々に、あるいは習慣的に感じ取らなきゃと、走りながら反省しまくりでした。反省だけで終わらせると、またエンジンをかけるのに手間取るんだよな。

葉が出始めると注目度が下がるようだけど、まだまだ健気に咲いてますよ。