その63/目黒税務署あたり、『菜香』の「もやしと挽肉炒め」

誰しも、人に教えたくない店というものがある。
食を人に伝えることが職業のひとつになってからも、
どうしても、「ここだけは」と迷ってしまう店だ。
ふっと入り、自分が寛げる場所を失いたくないから。
少ないスタッフでお店を守っている方たちに、
目まぐるしい思いをかけさせたくないから……。
理由はいくつも見つかるのだが、まずは空気、
その店の最大の魅力である空気感を乱したくない。
それがいちばん大きな理由なのかもしれない。
祐天寺の駅から駒沢通りに抜けたあたり。
古くからの酒屋や、昔からの農機具のメーカー、
税務署や、中学校、高校などが点在するあたり、
庚申塚があるような、どこか懐かしい街並には、
中目黒の一軒家から引っ越したモツ焼き屋の白眉、
あの名店『ばん』や、コラーゲン・ラーメンと
偏屈親父で有名な『海新山』など個性的な店が多い。
そんな中、小道に建つ小さな中華料理屋さんがある。
日本生まれと中国生まれの穏やかな中国人のご夫婦と、
人が変わっても、娘のように和んでいるアルバイト嬢。
その三人だけで切り盛りする、清潔で小さなお店は
今ではいつも予約でいっぱい、ほとんどが常連たちだ。
その昔、僕はこの近くの撮影スタジオの真裏に、
グラフィック・デザイナーと事務所を借りていた。
『菜香』は、まだその頃はランチもやっていて、
昼と夜の二回、ご夫婦にお会いすることも多かった。

近くで不動産屋に勤めているスキンヘッドの二枚目。
原宿のカリスマ店から独立したデザイナー兼オーナー、
スタジオに出入りする業界人やモデル、女優、詩人……。
ご夫婦の人柄と味に惹かれ、いろんな人が集まった。
夕方早い時間には、瓶出しの紹興酒と軽いアテで、
さっと飲んでは仲間たちとの情報交換をしたりして、
『菜香』は、さまざまな文化の点を線に結ぶ、
ひとつのサロン的な役割さえ果たしていた。
『菜香』に行くと、いつも誰かに会うことができた。
もやしと挽肉を、ちょっと辛く炒めただけの料理。
そのシンプルさが至難の業であることは想像がつく。
しかし、ここの味を知るまでは、まだ幸福だった。
季節の野菜炒めなんて、たかが知れてると思っていた。
だが一度食べてしまうと、もう他の店では駄目になる。
ラーメン、酢豚、水餃子、ごくごく当たり前の品が、
極上の味とプレゼンテーションで目の前に登場する。
昔、香港から帰った夜、その足でここに駆け込んだ。
難点はただひとつ、いつも一杯で入れないことだけ……。

それぞれの「引き出し」を
つくっているのはこんなひとたちです。