その65/池ノ上駅あたり、『熊八』の「もつ煮込み卵とじ」

15年くらい前はなんとも思わなかったのに、
久しぶりに出会ったとたん、胸のあたりとか、
頭の中とか、体の皮膚の薄い部分が、
ぞわーっと、じんわりと、熱くなってくる。
池ノ上界隈は、なんだか不思議な触感の街だ。
急な坂を下れば鈴なり横丁の喧噪が待つ。
ここは下北沢の上にある心優しい魔境だ。
20代の終わりから30代のはじめの頃、
僕は一人で、淡島通りに暮らしていた。
駆け出しのフリーランスになりたての日々、
似たような業界の仲間たちとつるんでは、
毎晩パーティーのような時間を過ごしていた。
淡島から旧山手通りに抜け、西郷山公園へ。
お金なんてなかったけど、浴びるほど飲んだ。
でも、池ノ上は近くて遠い街だった。
講釈は多いけど、美味しい赤身の肉を出す店。
線路沿いにある、当時は珍しかった台湾料理。
何度か顔を出したけど常連にはなれなかった。
15年ぶりに三宿の交差点近くに舞い戻って、
僕は夜な夜なギヤ無しのチャリで坂を昇る。
『熊八』で美味しいアテと温かい時間に会いたい。
ちょうどその頃、ある歌に出会った。
ごつごつしていて、まっすぐで、鋭く、熱い。
高校生の頃聞いたローラ・ニーロみたいだ。
ピアノだけで歌ったランディ・ニューマンの、
擦り切れるくらい聞いたライブも思い出す。
指の先にあるピアノが肉体と繋がってる感じ、
歌も、ピアノも、すべてが彼女の肉声だった。
島崎智子という名を検索したら、明日ライブだ!
それは池ノ上の駅前、ピアノがある小さな店。
ライブ前トイレに行くと、洗面所に女のコ。
タータンの巻きスカートにカーディガン着て、
ちょこんと座って、歯を磨き出した。
トイレから出ると、「おつかれさん!」の声。
その声は、こっちゃんこと島崎智子本人だった。
anoaというコとの連弾で始まったライブは、
そのまま、彼女ピンの弾き語りに代わった。
ほとんどが新曲、聞いたことがない歌。

曲目を言い、「かっこ、仮」と付け加える。
「穴ぼこ」も、「その日暮らし」も、
「おにぎりサンバ」も、泣きそうになった。
終わって話したら、池ノ上でバイト中……。
関西から東京へ、歌だけを持ってやって来た。
本気で音楽を愛してしまった恍惚と不安。
宝石みたいな瞳が眩しくて、恥ずかしかった。
思わず階段を昇り、道を斜めに『熊八』へ。
今夜は酔い潰れたい、春はまだ遠い。

それぞれの「引き出し」を
つくっているのはこんなひとたちです。