その84/駒沢通り祐天寺あたり、『ばん』の「豚尾(とんび)」

七夕の夜が来ると、思い出す女性がいる。
セント・ジェームスのボーダー柄や、
グローバーオールのダッフルコートを、
高校生から変わらないスタイルで、
いつも凛と、涼しげに着こなしていた。
大島紬や絽など、夏の着物も鮮やかだった。
佳き時代の九州女の意地と誇りを持ち続け、
酒場の喧噪とグルーヴを愛し続けた人。
兵六から銀漢亭、神保町を漂流した後、
ヒトミ姉さんは去年の七夕の夜おそく、
アパートの階段から天の川に昇り落ちた。
そして二週間、幸せな笑顔で眠り続け、
皆既日食が帝都を包んだ日の夜半、
静かに五十余歳の生涯に幕を閉じた。
円山町のアパートでの通夜の晩には、
『ばん』、牛太郎の目黒組、神保町の仲間たち。
古くは外苑西通りの夜更けの飲み友だち。
東京中の酔っぱらいが部屋を埋め尽くした。
まだ渡せずにいたアラン・トゥーサン。
セカンド・ラインの巨匠の新譜を、
僕はそっと、お棺の片隅に添えてもらった。
セカンド・ラインはニューオリンズの地で、
葬列のパレードから生まれたリズムだ。
武蔵小山の牛太郎から、祐天寺の『ばん』へ。
焼酎がまわり始めた頭で目黒を渡ると、
今も後ろからヒトミさんがやって来そうだ。
『ばん』ではレモンいっぱいの元祖サワーと、
悲しみを汗腺から追い出してしまう「豚尾」、
ペナペナの旗みたいなレバカツを貰おう。
サワーも、豚尾も、レバカツも、
みんなヒトミさんが愛したものばかりだ。
佐世保、村上龍の『69』の街で生まれ、
いつも東京の真ん中を駆け抜けて生きた。

弔い酒の注文で、近くのカクヤスは品切れ。
みんな正体をなくすまで飲み続けた通夜。
たったひとつだけ、いつもと違うことは、
ヒトミさんの笑顔がもう見つからないこと。
強い炭酸も、驟雨も、悲しいジョークも、
喪失の思いを薄めることなんてできない。
ヒトミさん、『ばん』は今夜も超満員だよ。
梅雨空の向う、旨い酒は見つかりましたか?

それぞれの「引き出し」を
つくっているのはこんなひとたちです。